夫の亡父はシベリア抑留者、私の亡父は少年飛行兵
私たち夫婦の親は
4人ともあの世に旅立っています。
「親が戦争を体験した」最後の世代、
その私たちがシニアとなっています。
命をかけて国をまもった
日本人が沢山いたことを
忘れるわけにいかないのです。
シベリア抑留者(しべりあ よくりゅうしゃ)とは、第二次世界大戦の終戦直後から数年間にわたり、旧ソ連(ソビエト連邦)によってシベリアなどの極寒地へ連行され、強制的に労働に従事させられた日本人のことを指します。
労働:炭鉱、伐採、建設、鉄道敷設などの過酷な作業。
環境:氷点下30〜40度の寒さ
犠牲者:厳しい環境と労働、病気、飢えにより数万人が命を落としたとされる。
少年飛行兵(しょうねんひこうへい)とは、第二次世界大戦期の日本海軍で採用されていた若年者向けの航空兵養成制度で、正式には「海軍飛行予科練習生(予科練)」のうち、特に年齢の低い志願兵を指す場合に使われる呼称です。
対象年齢:主に15〜17歳前後(中学校卒業前後の少年)
募集形態:志願制(ただし、国威発揚や戦況の悪化で事実上の強い勧誘もあった)
空襲にあったふるさと
私どものふるさとは、
大空襲にも見舞われました。
当時の被害の様子などを
直接聞いて育った最後の世代です。

川に飛び込んで難を逃れたこと、
焼けただれて亡くなる人々の姿…。
志願したという形で
地元の皆様に見送られたそうです。
私が幼かったころの
父の様子を思い出します。
戦争のことを聞いても
少年飛行兵仲間だった人たちのアルバムを
じいっと眺めていることがありました。
美しく修正されアルバムに収められていました。
まるでスターのブロマイドのように見え、
不思議なものに感じました。

父に尋ねても
「亡くなってしまった」というだけで
戦争の話をすることはほとんどありませんでした。
シベリア抑留の体験を
ほとんど語ることはなかったそうです。
\シベリア抑留をテーマにした映画/
話さなかったのではなく、話せなかった
戦争のことを
ほとんど話さなかったのではなく
話せなかったのだと思います。
私たち夫婦が成長する中で、
自分たちが学んだ知識や、
家族から聞いた断片的な話を
つなぎ合わせることで
親が体験した戦争の実態を
少しずつ理解できるようになりました。
夫の父は、成人間もなしで抑留を経験し、
私の父は、少年でありながら戦争に志願したのです。
その心に刻まれた記憶は、
言葉にするには
あまりにも深いものだったのだと思います。
歳を重ねて気づく感謝の念
歳を重ねるごとに、
先人たちへの感謝の気持ちが強くなります。
生きていけること、
家族がいること、
食べるものがあること、
病気になれば医療を受けられること。
街があり、道があり、鉄道があること。
こうした日常は、
すべて先人たちの
犠牲や苦労の上に
成り立っていると実感します。
隣人が殺人鬼だったら
突然ですがたとえ話をします。
ご近所に殺人鬼が住んでいるとしたらどうしますか?
やはり万が一のために戦う備えは必要でしょう。
理想を語るだけではすみません。
備えてこそ「抑止力」が働くのです。
襲われてそのままでいるような弱虫じゃない!」
戦う術も身につてける!
くじく力になるのではないでしょうか。
戦うことになってしまったら
犯罪者の思うままにされるわけにはいきません。
自分を犠牲にしてでも
戦うことになるのではないでしょうか。
今、私たちの日本も、
命を懸けて先人たちが守ったこの国を、
私たちも守り続けなければならないのです。
未来の子どもたちのために
私たちは、
命を懸けた先人たちの
ご恩に報いるために
何ができるのでしょう?
そして、
未来の子どもたちのために、
どんなことができるのでしょうか?
世界各地で紛争が続く今日この頃、
そんなことを考えずにはいられません。
※本記事は他のサイトで掲載していたものを再掲載しています。
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