相対的貧困例と絶対的貧困例は、もしかしたら私たち夫婦かも【貧乏】

「貧乏」って聞くと、どんなイメージが浮かびますか?

お金がなくて、生活が苦しくて、何かと困りごとが多い、そんなところでしょうか。

でも、同じ「貧乏」でも、感じ方は人それぞれ、しかも、時代や環境によっても全然違いますね。

最近よく耳にする「相対的貧困」と「絶対的貧困」。

実は、私たち夫婦がそれぞれ体験したことと重なるところが多いんです。

目次はクリックで開きます。

相対的貧困と絶対的貧困の違いと例

絶対的貧困とは
最低限の生活必需品、つまり衣食住が満たされていない状態のこと。

食料や清潔な水も手に入らない、住む場所もなくて、生活そのものが危機にさらされているような状況です。

日本では珍しいけど、発展途上国ではいまだに多く見られる状態ですよね。

 

我が家の夫は70代。

夫が子供時代を過ごしたのは、日本はまだ戦後の復興途中の時ですから、特に地方では絶対的貧困に近い状態でした。

一方、

相対的貧困とは、
周りと比べて生活水準が低いと感じる状態のこと。

こちらは、社会全体の平均的な生活レベルと比べると、自分の生活が見劣りするような状況のことですね。

 

私が思春期だった頃、ちょうど第一次オイルショックがありました。

家業が倒産して、相対的貧困とも言える環境に落ちてしまったんです。

周りと比べて経済的に苦しいだけでなく、孤独感や社会からの疎外感も伴うのが、この相対的貧困の辛いところです。

 

CHIKAKO
まずは、夫の「絶対的貧困」から

絶対的貧困例:夫の子供の頃は「皆が貧しかった」時代

夫が子供時代を過ごしたのは、まだテレビが普及する前の時代です。

夫は大家族の兼業農家の長男で、小学校に上がる前から、火吹き竹を使って三升ものご飯を炊いていました。

それが幼い「坊や」にも課された立派な役割だったんです。

夫の家庭は、田畑や養鶏、機織(はたおり)が生業で、家族全員が日々の仕事に追われていました。

当時は、多くの家庭が大家族で、家事の負担も分担され、衣類は繕いながら長く大事に使い続けるのが当たり前でした。

使い捨ての現代とは違い、物が豊富ではなかった時代です。

多くの家庭が物質的には今ほど恵まれていませんでした。

 

とはいえ、特に地方では、地域や親戚同士で助け合う文化が根強く、「自分だけが特別に貧しい」と感じることは少なかったようです。

夫は、人々が助け合う田舎暮らしの中で、「世の中をもっと良くしたい」という希望や志を育てていったのかもしれません。

その後、夫は官僚となり、国連勤務を経て故郷に戻り、県議会議員として働きました(今では引退しています)。

今でも「世の中のために」と願う同世代仲間は少なくないようです。

夫が育った時代は、日本全体がある意味「絶対的貧困」に近い状況だったと言えるでしょう。

確かに「財閥」と呼ばれるような富裕層も一部には存在していましたが、庶民の間では「格差」についての意識は今ほど強くはなかったようです。

たとえば、大病にかかれば命を落とすのがむしろ当然だった時代で、現代のように「お金持ちは高度な医療が受けられる」という「格差」は希薄だったのです。


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CHIKAKO
次は、私の「相対的貧困」です。

相対的貧困例:私は思春期に孤立した相対的貧困

一方、妻の私は、第一次オイルショックの影響による「家業の倒産での転落貧困」を経験しました。

多感な思春期に、家庭の経済状況が一変したことで、周囲との違いを強く感じ、「相対的貧困」の中で孤立感を感じる日々が続きました。

それまで運転手さんやお手伝いさんがいるような暮らしから、食事にも困る生活へと急転落したのです。

思春期の私にとっては大きなショックでした。

10代20代の青春期に、周囲ではスキーや海外旅行を楽しむ友人も多く、自分だけが取り残されているような感覚でした。

「お金がない」と理由を伝えられないもどかしさもあり、交際を避けがちだった私は、ますます孤独感を重ねていきました。

 

節約は、一円、二円を積み重ね、例えば、五百円、千円とあるのなら、友達と喫茶店に行くより、家族に何かを買って帰るために貯金をするような暮らしぶりでした。

家族を支えたいと思う気持ちは強かったですね。

親の方が、娘の私よりもっと苦労していることは肌身で感じていましたから。

その時の孤独感や葛藤は今も心に残っていますが、振り返れば、あの体験が私のたくましさを育てたと感じます。

私が当時のことを話す際、家業の「倒産」という言葉を使えるようになるまで、実は20年以上かかりました。

「倒産」という言葉を思い出すだけで、のどが締め付けられるように苦しく、長い間、言葉に発することはできなかったのです。

 

【まとめ】教訓と、貧乏と貧困の違い

貧乏から得た教訓

私たち夫婦が経験してきたことを主観的に表現すれば、夫は「昭和復興期の社会全体の貧困」、私は「高度成長期の倒産で生じた個別の貧困」だったと言えるのかもしれません。
私たち夫婦は、少し異なる「貧乏」を経験してきましたが、今は同じことを感じています。
お金がないことを理由に絶望なんかしなくていい!

 

もし今、経済的な苦難の中にある方がいたら、必ず道は開けることは、お伝えしたいと思います。

 

お金のことは苦労が多いけど、それで絶望なんかしなくていい。

何とかなります。
…まあ、何とかなるという気持ちになるまでに、何ともしようがない苦しみもありますが…。

現代の「相対的貧困」

現在は、「相対的貧困」の中で孤立感を抱える人が増えているとも言われます。

もしかしたら、私が経験した困難と似た状況にある方がいらっしゃるかもしれません。

 

この場合、周囲の理解が得られにくい分、自己との戦いも多いはず。

皆にとって当たり前のことを、我慢したりあきらめたりすることになるからです。

 

そういう思いが続くと、当然のことながら「お金がない自分は価値が無い」という錯覚にも陥っていきます。

そう、錯覚なんです。

それに気が付くのに、私は何年もかかりました…。

でもそんな私も絶望に押し流されるばかりではなく、働き続け、自分の人生を創ってきた自負があります。

 

私たち夫婦のそんな思い出話も、これから少しずつこのブログでご紹介していきますので、どうぞお付き合いくださいね。

末永くよろしくお願いします♪

 

ああ、そうそう、もう一つ「貧乏から得た教訓」があります。

貧乏を知った分、豊かさもよくわかる!
そんなわけで、私たち夫婦は、幸せを感じるセンサーの感度が、すこぶる良好です。

【おまけ】貧困と貧乏の違い

ところで、「貧困」と「貧乏」は似ていますが、意味やニュアンスに少し違いがあります。

貧困
経済的困難に加えて、教育や社会的つながり、健康など多方面での「欠乏」が含まれ、社会問題として扱われやすいものです。
貧乏
個人や家庭の経済的な困難を意味し、日常的に使われやすい言葉です。
貧困は「いろいろと足りなくて社会的に困っている」ときに、貧乏は「経済的に苦しい」というときに使われる言葉といえそうです。

 

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