富山の全日本チンドンコンクール。
私には、忘れてしまうにはもったいない思い出があります。
このコンクールは、毎年4月上旬に開催される、国内外からチンドンマンが集う春の風物詩です。
街なかを舞台にした賑やかな回遊型イベントとして、多くの観光客を魅了しています。
華やかな音と笑いの向こう側にある、ほんの少しの裏側の景色。
そして、もう語る人が少なくなってきた大切な人のこと、お話させてください。
審査席から見えていたチンドンの“本当の面白さ”
私は、そのコンクールの審査員を、何年も務めさせていただいていました。
審査席は、ステージのすぐ前。
歌舞伎のように「見得(みえ)」をきる瞬間の迫力を、真正面から受け取ることができる、贅沢な席でした。
けれど、本当のお楽しみは、そこではなかったかも。
というのは、近いと、舞台の裏側が、全部、聞こえてしまうんです。
「おい、そっちじゃないだろう、こっちでやるんだよ」
「次は、それ持ってこい」
そんな親方の小声の段取りが、こちらまで届いてくるのです。
その声に応じて動くチンドンメンバー。
どんなにドーランを塗り、鮮やかな衣装をまとっていても、
動きがのろのろか、キビキビかで、年齢や、親方との関係性まで見えてくる距離でした。
踏ん張る足の力。
呼吸のタイミング。
そして、きっと夫婦、あるいは長年の仲間なのだろうと感じる、あの独特の間合い。
舞台の完成された姿も魅力ですが、その手前にある“人間の気配”こそが、何よりも魅力。
それが、チンドンなのです。
高沢滋人さんはチンドンコンクールの仕掛け人
当時、富山城址公園の特設ステージでは、高沢滋人(たかざわしげと)さんが、コンクールの進行役を務めていました。
この方こそが、全日本チンドンコンクールを始めた仕掛け人です。
高澤さんは、地方都市にあって、映画評論家という稀有な存在でありながら、この文化を立ち上げた中心メンバーでもありました。
1955年のことです。
高澤さんは、ハンサムで、少し怒っているような表情でいらしたので、チョット近寄りがたい雰囲気。
でも、実はとてもやさしいお人柄で、そのギャップも魅力となって、多くの方に一目置かれる、粋な方でした。
私が富山で女性のネットワークグループを運営していた頃、ご縁をいただき、勉強会にもお越しいただいたことがあります。
他者に尽くすことの大切さなど、心に明かりがともるようなお話を、熱く語ってくださいました。
文化というものは、誰かが意図して、少し無理をしてでも守ろうとしなければ、残らない。
高沢さんを見ていて、そんなことを感じていたことを思い出します。
野尻博さんと富山チンドンマン
もう一人、忘れてはならないのが野尻博(のじりひろし)さんです。
もともとはイベント会社の経営者でしたが、やがて自ら大道芸人となり、また、チンドンマンとしても表舞台に立つようになった方です。
大道芸人としては、「作芸人磨心(さうんどましん)」と名乗り、一人でいくつもの楽器を操る、多芸な人でした。
1995年以降、地元富山の担い手として、チンドン文化の継承と発展に深く関わってこられました。
当時、チンドン文化は衰退の一途をたどり、全国のチンドンマンの数は減る一方。
ましてや富山には、継続的な担い手がほとんどいない状況だったのです。
そのことを憂い、自ら立ち上がったのが野尻さんでした。
私は、その思いを、直に聞いて、すぐそばで見ていたひとりです。
ご縁をいただいたのは、富山置県100年の事業でした。
一緒にキャラバンバスに乗って、富山近県を巡るキャンペーンチームとして数か月を共にしたのです。
(私は、キャンペーンレディでした。あはは)
それをきっかけに、野尻さんの会社のイベントの、企画を立てたり司会進行を務めたりすることもありました。
ちょうどその頃、私はシングルマザーとして、実家の高齢の家族の介護も抱えていた時期でした。
ずいぶんと、助けていただいたものです。
高澤さんと野尻さん。
思い出すと、あの頃の時間がやわらかくよみがえり、感謝の思いが溢れてきます。
子どもの頃、チンドンマンは身近にいた
さて、子どもの頃、私は少しばかりお嬢さんでした。
祖父が、戦後復興に関わりながら会社を経営していて、北陸だけでなく京都や大阪、愛知にも拠点を持っていました。
その会社が、毎年のようにチンドンマンを呼んでいたのです。
家の近くを、にぎやかに練り歩いてくれるチンドンマン。
その後ろには社員の方々が続き、大きな被り物をしたり、何人も入れる家のような模型を担いだりしていました。
そうした小道具(大道具かな?)が、家のすぐそばに置いてあったのです。
春のチンドンコンクールの時期、私は兄や弟と、その中にこっそり入り込んで、遊んだりしたものです。
あの音と、あの色と、あの空気。
今思えば、とても贅沢な風景でした。
チンドンは、歩く大衆演劇
本場ブロードウェイのミュージカルも、もちろん素敵です。
けれど、大衆演劇には、また別の魅力がありますよね。
チンドンコンクールは、その極みのようなもの。
音を鳴らしながら街を歩き、人を引き寄せ、その場で一瞬の物語をつくる。
見得をきり、笑わせ、立ち止まらせる。
舞台が固定されていないからこそ、観る側との距離が近いのです。
だから、あのライブ感があるのでしょうね。
語り継ぐ人が少なくなってきた富山のチンドンコンクールの成り立ち
ああ、つい思い出にふけってしまいました。
高沢さんも、野尻さんも、もういらっしゃいません。
あの時代を知る人も、少しずつ減ってきています。
ですので、書いておこうかなって。
あのにぎやかな音の裏側にあった、人の気配を。
ほんの少しでも、残しておきたいと思いました。
富山の全日本チンドンコンクールとは
富山の全日本チンドンコンクール。
この催しは、戦後の復興期に「まちを明るくしたい」という思いから始まりました。
まだテレビも一般に普及していない時代のことです。
前述した通り、1955年、高沢滋人(たかざわしげと)さんたちが中心となって立ち上げたのが始まりとされています。
富山は1945年の大空襲で焼け野原となり、街は大きな打撃を受けました。
その混乱の中で、チンドン屋という存在もすでに衰退しつつあったのです。
けれど、音を鳴らし、衣装をまとい、人を笑わせながら広告をするその文化は、確かに人の心を揺り動かすものでした。
チンドンマンは、街を練り歩きながら、広告主の店や会社を宣伝します。
太鼓や鉦(かね)を鳴らし、歌い、時には芝居を交えながら、人を惹きつけていく。
いわば、街そのものを舞台にした移動型の大衆演劇なんですね。
現在では、富山市中心部の商店街(総曲輪や中央通り周辺)を舞台にした回遊型のイベントへと姿を変えています。
ただ、その根っこにあるものは、今も変わっていないように思います。
\春の観光におすすめです/
全日本チンドンコンクール(富山市観光公式)
2026年は、4月3日(金)~5日(日)
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